居直り日記

深く考えずに書く

【映画】「ぼんち」| 芋の切り方でいびられる嫁(というのは映画の本筋と全く関係ない)

山崎豊子×船場といえば「女系家族」を思い出す。この「ぼんち」も「女系家族」に負けず劣らず船場の商家のイケズっぷり(京都ではなく大阪の場合もイケズと表現して良いのか知らないが)がすごかった。そしてえげつなかった。しかし「女系家族」ほど笑えない。ちょっとしみじみする。

船場の由緒ある足袋問屋「河内屋」の若旦那、喜久治(市川雷蔵)は結婚もせずに女遊びに精を出していることを祖母・きの、母・勢以の二人に咎められ、きのの「私がいい嫁を選んでやるから身を固めろ」との言葉に従い、弘子(中村玉緒)を娶る。

きのと勢以は実の親子だが、勢以はきのにまったく頭が上がらない。ところで、この山田五十鈴演じる勢以は恐ろしく主体性のない女性で、実の母親であるきののいいなりである。

山田五十鈴といえば世代的に「必殺仕事人」の三味線の師匠(役名知らない)を連想するが、「ぼんち」での山田五十鈴はそれとは似ても似つかない役柄だ。

さて、嫁いできた弘子が台所で使用人に出す汁物を作っていると、すかさず勢以がやってきて芋の切り方をチェックする。「(さいの目よりも丸く切ったほうが)美味しくなりますし…」と説明する弘子に、勢以は「使用人の食事なんか味より見た目、さいの目に切ったほうがかさが増したように見えて見栄えがいい、芋の切り方一つにもうちのしきたりがあるからちゃんと従え、まったくこれだからたった一代の成金は(大意)」みたいなことを言っていびるのであった。

芋の切り方て。本筋とは全く関係ないが面白かった。

きのと勢以は何かというと「船場のしきたり」を振りかざす。「妾が子供を生んだら、男の子なら五万円、女の子なら一万円を妾に渡して、子供はすぐに里子に出す」とか、現代では到底受け入れられないが、舞台は戦前の日本である。まあそんなもんだろう。考え方が基本的に「個人より家」である。

弘子が男の子を産んだのでとりあえず跡継ぎは確保できた。ということで、きのは「あとは女の子を作って、将来優秀な婿養子をとって跡継ぎを助ける地位につければ家は盤石」と考え、京マチ子演じるお福に目をつける。なぜか。「体が良いし、肌がむっちりしている。ああいう肌の女は女児を産む」と睨んだからである。

その話を実の娘である勢以と話すシーンで、きのは自分の肌を勢以に見せつける。それを見た勢以は「お母さん私よりきれいな肌でうらやましいわぁ」的なことを言うのだが、流石にこれは気持ち悪かった、ちょっと笑ったけど。

紆余曲折あり、日本は戦争に突入する。空襲を避けるため、喜久治は一旦女達に当座の金を渡して田舎の寺に疎開させる。

戦争が終わり、一年ほどたって会いに行くと妾三人が一緒に風呂に入っており、めいめいが今後の人生プランを生き生きと語っている。彼女たちは金を求めているだけであり、自分自身は必要ではないのだと言う事実を目の当たりにして、女達に会うこともせずにそのまま喜久治は帰路につく。

この入浴シーンがすごく良い。三人の妾が「芸者に戻って商売するわ」「株やるわ」「とりあえずお金があるうちはのんびりするわ」(大意)と、戦争の傷を全く感じさせない生命力を見せつける。特に「戦争で指輪は供出させられたけど、奥歯にいれたダイヤモンドは大丈夫だったわ」という、若尾文子演じるぽん太のしたたかさといったら。

Wikipediaによると、「最初の映画が完成した際、試写を観た原作者の山崎豊子は、しみったれた主人公に描かれていることに不満を漏らし、監督市川昆の『ぼんち』であって自分の『ぼんち』ではないと感想を述べた。」とある。

しかし私は映画の喜久治を気に入った。だらしなくて適当なところもあるが、優しく、裕福な家で育った人間特有の鷹揚さも持っている。戦時も自分の周りの女達の面倒を見る気概があるいい男である。ラストで、もう縁も切れて実際は生きているのか死んでいるのかわからない女達の位牌を仏壇に飾っているのも、なんだかんだで彼女たちに対して愛情を持ち続けていると感じた。

撮影について。喜久治の襲名披露のシーンと、ぽん太の「本宅伺い」(出た、本宅伺い。この言葉は映画「女系家族」で初めて知った)のシーンは真上からのショットで始まる。よくある手法なのかもしれないが、こういう、ふっと視点をずらしたショットが入るとこちらの意識も一瞬新たになって良い。

暗闇で憲兵に尋問されるシーンでは、最初喜久治の顔は暗くて見えず、憲兵との会話がある程度進んで初めて、喜久治が国民服を着ているのがわかる。ラストは、すっかり寂れた河内屋の玄関を、若かりし頃の喜久治が出ていく後ろ姿。

オープニングの音楽がちょっとニーノ・ロータっぽいというかフェリーニっぽい。