一言でいうと、言語学にまつわるちょっとしたお話*1を、著者が大好きなプロレスネタに絡めて、カレー沢薫っぽい語り口で語っている本だ。
「●●っぽい語り口」などと言うとまるで悪口のようだが、そうではない。前作「言語学バーリ・トゥード Round1」で「カレー沢薫を全力でパクろうとしている」と著者自らが申告しているのだ。
私はカレー沢薫も結構好きなので面白く読んだが、このノリが苦手な人もいるかもしれない。
そして、著者自らが「大したことは書いてない」と断っているように「言語学について知りたい!」と思っている人が読む本ではない。
しかしながら、「言語学」と言いながら隙あらばプロレスの話をしようとする駄文にどういうニーズがあったのか、いまだに分からない。(中略)今作でも相変わらずどうでもいい話をしているので、購入についてはよくご検討いただければと思う。
川添愛著.言語学バーリ・トゥード Round 2: 言語版SASUKEに挑む.東京大学出版会,2024.
とはいえ、実際「プロレス興味ねぇ」という向きも全く問題ない。私もプロレスにはほとんど関心がないが、読んでいて十分楽しめた。
特に興味を惹かれたのは「二〇二三年も"行けばわかるさ"」「日本語は『世にも曖昧な言語』なのか」の2編だ。
「二〇二三年も"行けばわかるさ"」
「二〇二三年も"行けばわかるさ"」はアントニオ猪木の追悼文だ。 著者は猪木を「格闘技というジャンルにおいて新しいパラダイムを生み出す存在」で、それこそが彼の偉大さであると語り、言語学におけるソシュールやチョムスキーになぞらえている。
1976年の「猪木vs.モハメド・アリ」でのこと。直前になってアリ側から「頭への攻撃禁止」「空手チョップ禁止」「立った状態でのキック禁止」などの不利な条件をいくつも突きつけられた猪木は、「スライディングをして、寝た状態でキックをする(アリキック)」という戦法でこれに応じた。そしてこの「アリキック」という言葉のもつ言語学的特異性が、「猪木vs.モハメド・アリ」という出来事と、そこでの猪木の戦い方を象徴しているという。
猪木以前にも異なるジャンルの格闘家同士が戦うことはあったらしいが、猪木が大々的に行ったことでこの「異種格闘技戦」が確固としたジャンルとして定着した。そして猪木が生み出したパラダイムの代表的なものがこの「異種格闘技戦」であるというのが著者の主張だ。
明らかに話のメインは猪木であり、言語学との関連については正直まあ……ちょっと無理をしている気がするが、猪木といえば「元気ですかー!」しか思い浮かばないプロレス無知勢としては、彼にそんな面があったのだということを知ることができて面白かった。
ところで著者は日常的に猪木のモノマネをしているそうだ。
一番多いのは、「よぉーし! よしよしよしよし!」と言いながら手を叩くというものである。シンプルだが、疲れていて動けないときなんかにこれをやると、気合が入り、どうにか行動に移れる。
川添愛著.言語学バーリ・トゥード Round 2: 言語版SASUKEに挑む.東京大学出版会,2024. p.118
これはなかなかメンタルに良さそうなので私も真似してみたい。
「日本語は『世にも曖昧な言語』なのか」
結論は「曖昧なのは日本語だけではないし、曖昧にしたくなければ文を短くするなり言い換えるなりすれば良いだけで、曖昧になるのは話し手がそういう使い方をするからにすぎない」というもので、まあそうだよなと思う。
多くの日本人にとって日本語の次に身近な言語である英語にも、曖昧だったり、複数の意味にとれる表現がたくさんある。また、アーサー・ビナードはオバマ元大統領のキャッチフレーズ "Change" "Yes, we can" の曖昧さをコラムで次のように指摘しているとのこと。
氏によれば、「Change」のように英語の動詞を活用させず、単独で原型のまま使うのは「言質を取られないように誤魔化す常套手段」だという。(中略)「Yes, we can」についても、氏は「canにつづく動詞と目的語が出てこなければ、どうとでもごまかせるアヤフヤなコマーシャルにすぎない」と指摘している。
川添愛著.言語学バーリ・トゥード Round 2: 言語版SASUKEに挑む.東京大学出版会,2024. p.178
言われてみれば確かにそうかもしれない。単に短くしたほうがキャッチーだからだと思っていたが、そういうことでもないようだ。
ところで、著者は日本語が曖昧な言語だと主張する人たちのことを「自虐的」と捉えていたが、知り合いの言語学者にそのことを話すと、「自虐じゃなくて、曖昧な日本語を使いこなせている私たちってすごい!って言いたいのでは」と返されたと言う。
これに関しては「(他の言語のことは知らないけどいちいち「他の言語は知らないけど」って前置きするのも面倒だから省略しつつでも日本語も曖昧だと思うからとりあえず)日本語って曖昧ねー」ぐらいのノリで話しているだけなのではないだろうかと思うのだがどうか。違うか。
そういえば昔「あいまいな日本の私」という大江健三郎のベストセラーがあった。読んでいないのでこの本の主張がどういうものなのか知らないが、なんとなく日本人の頭のなかで「日本語(と、日本という国、日本人など日本にまつわるいろんなものが)曖昧なものである」というぼんやりしたイメージを定着させるのに一役買っているのではと思った。